国史跡斎宮跡(くにしせきさいくうあと)
   斎宮(さいくう)は、古くは「いつきのみや」と訓み、伊勢神宮の祭祀に奉仕する未婚の皇女(斎内親王)もしくは女王(斎王)が居られ、斎宮寮という役所も設けられていました。斎内親王と斎王を併せて斎王ともいい、それらをすべて総称して斎宮とよばれています。物忌(ものい)みする清浄な宮を意味しています。斎王は、天武天皇の大来皇女(おおくのひめみこ)を歴史上の初代とし、歴代天皇の代毎に都から派遣され、後醍醐天皇の祥子(さちこ)皇女まで、飛鳥時代から鎌倉時代までのおよそ660年存続しました。斎王は、ト定された後、宮中の初斎院(しょさいいん)、都の郊外に設けられた野宮で足掛け3年に及ぶ潔斎の後、大極殿での「別れの御櫛」とよばれる発遣の儀式を終え、9月上旬吉日に伊勢に向かって群行されました。斎宮では、日々清浄な生活を過ごしながら、伊勢神宮の三節祭(さんせつさい)とよばれる6月・12月の月次祭(つきなめさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい)の内宮と外宮に参宮し、その祭祀を奉仕することを任務としていました。
 斎宮は、永くその所在が不明であり「幻の宮」ともいわれていましたが、1970年(昭和45年)からはじめられた三重県教育委員会の発掘調査により解明が進められています。遺跡の規模は、東西約2km、南北0.7km、総面積は約137ha(およそ甲子園球場35個分)と全国 屈指の広大なものです。史跡東部には、一辺120mを基準とする方形区画が、東西に7列、南北4列の基盤目状に並んだ方格地割が確認されています。その中心部分にあたる牛場・鍛冶山地区では、大型掘立柱塀に囲まれ、大型の掘立柱建物が規則的に配置され、斎宮殿があったと考えられる内院地区の様子が次第に明らかにされつつまります。遺跡からは、土師器、灰釉陶器、緑釉陶器などの当時の食器のほか、円面硯、鳥形硯、羊形硯など各種の硯や役所名を書いた墨書土器、土馬や人面墨書土器など祭祀に用いられたと考えられる遺物などが出土しています。
 

 
1/10史跡全体模型→
 近鉄斎宮駅の北側に広がる斎宮跡歴史浪ロマン広場は、史跡全体を10分の1のスケールで表示して、お越しいただいた方々が、その広大な規模と当時の姿を実感していただける施設として開園しました。
 また、過去30年余年におよぶ中心区画の建物も、10分の1のサイズで配置しています。斎宮の大きさと立ち並ぶ建物の姿を、ガリバー気分でお楽しみください。

←柳並木
 歴史ロマン広場の外周道路は、ちょうど方格地割の北西のコーナーにあたります。従来より農道として利用されてきたこの道は、発掘調査によって古代より使用されてきた道と同じ場所でつかわれてきたことがわかりました。文献によると斎宮の周りには溝が掘られ、また柳や松が植えられていたそうです。千年以上昔から人々が行き交った道、当時の風景を再現したこの道は、あなたを往時の斎宮に誘います。